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「人生経験×読書」の高さは脳を刺激する知的幸福感の深さに比例する

久しぶりのブログ更新。余談だが、前回ブログを書いた時から結構な日数が経っているのに昨日もアクセスがあった。ブログを毎日更新し続ける大切さとなぜ経営者やスタートアップの人たちがブログを書くことにこだわりを持つのかがわかった気がする。

 

以前、「短所は時として唯一無二の武器となる」という記事を書いたことがある。まだブログ記事が少ないけれど、圧倒的にアクセス数が多いのがこの記事だ。

 

この記事の要旨は「短所は捉え方によっては誰にも真似できない自分だけの武器になる」ということ。僕は人によく怒られるという短所があるけれど、それが上手く活きてDeNAの長期インターン生になれたという経験がある。

 

自分の行動や人生経験から出た自分なりの哲学、考え方だと思っていた。しかし、どうやらこの考え方は100年以上も前の人が考えていた。

 

その人は著名な心理学者のルフレッド・アドラー(ドラマをやっていたりと、日本でも相当有名になりつつある)。

 

100万部突破のベストセラー「嫌われる勇気」を読んでいた時にアドラーも同じ考え方をしていたということを知ったのである。

 

 

 

凄くいい本なので是非みなさんにも本を手にとって実際に読んで頂きたいのだが、関連部分の内容のみを簡単に解説したい。

 

本書は2人の登場人物の会話から成り立つ。人生に絶望し、ひねくれていて、世の中を斜に構えて見てる「青年」とアドラー心理学の見地を持つ哲学者である「哲人」の2人だ。

 

青年はひどく劣等感を感じており、自分を劣等感の塊だと言う。哲人もかつて彼が青年と同じくらいの年齢の時にある劣等感を感じていたと語る。

 

155センチしか身長がないこと、身長が低いことに対して哲人は劣等感を感じていた(アドラーも155センチほどの身長だった)。その悩みを友人にぶつけたところ友人は「くだらない」と一蹴する。

 

友人の主張は身長が大きいと相手を威圧するが、身長が低い哲人は相手の警戒心を解くことができてくつろげさせることができる、というもの。身長が155センチしかないということは劣等性ではない。

 

その155センチの身長をどう思うか、どのような意味づけを施すのか、どのような価値を与えるかが大切なことなんだ、と。つまり、劣等感というのは「客観的事実」ではなく、「主観的な解釈」なのである。

 

本を読んでいた時、僕は思わず唸ってしまった。なぜならば、短所(劣等性)は時として武器になると自分が考えていたことを、100年以上も前のアドラーが既にきちんと考えていて、それを心理学という専門性のある学問として論理的に解説していたからである。

 

この時、僕の心はタイトルにもある通り知的幸福感でとても満たされていた。この時の感情は実際に感じてみないと形容しづらく、知的幸福感という言葉がその時の感情の昂りを表すのに相応しかったので造語してしまった。

 

言うなれば数学で悩みに悩んだ問題が解けた瞬間、現代文の心情把握で正解した瞬間に近いかもしれない。インテリジェンスな幸福感とでも言うのだろうか。

 

この感覚を味わえたのは、怒られるという短所を長所と捉えてキャリアを切り開いた経験と、嫌われる勇気の本を読んで知識を得たからに違いない。どちらかが欠けていれば、知的幸福感のあの形容しがたい脳と心への快感は味わえなかったろう。

 

また、経験の数を増やし、本から得た知識を増やせば知的幸福感を感じる回数は増え、その刺激もより大きなものになるだろう。

 

シンプルに言い換えれば、アウトプットとインプットどちらも数をこなせば自発的な知的好奇心を持つ人間に相応しい知的幸福感を感じる回数は増えるということだ。

 

本を読んで知識を得て、経験に活かすという手順もいいが、自分の経験したことを後から本を読んで学問的に正しいことなのか答え合わせしてみるのも良いと思う。

 

おそらく前者の方がよりスムーズに事が進むと思うが、たまには遠回りして苦労した後に「やっぱり自分の経験、経験に基づく検証は学問的に正しかった」と思えるのも面白いだろう。

 

まぁ、前者でも後者でも経験と知識がなければ出来ないことではある。今後もアウトプット、インプットどちらも頑張りたいと思う。